細胞的神経的文脈

ゴミブログ なう

彼がバンドをはじめるそうです

といっても彼はベースだそうですが。まだ買ってすらいない。笑うしかないね。学園祭で恥を曝す予定なのだろうか。見に行かないでおいてやりたい。

敵対の中で人は成長するのだろうか? 少なくとも子供はそうだ。敵対に勝利すればその行為は促進されるし、敗北したならその行為は衰退する。なら大人はどうだろうか。……芸術と批評の話だ。例えば毎回こっぴどい批評を受けているのに作風に微塵の変化もない先輩がいる。彼は何故あれだけの酷評を受けていても堂々としていられるのだろうか? 考えられる一つの理由は、彼の作風を評価している人間も少ないながら存在していることだ。それも文壇の割と上層部である。我々サークルの民の声など耳に入らないというわけだろうか。あるいはもう一つの可能性として、彼の芸術は民主主義ではなく一つの大いなる理論体系のもとで出来上がっており、批評そのものが必要ないということだろうか。あるいは、この二つは共通部分をもっているようにも思える。文壇の頂に輝く真実を彼の目は見据えているというのか。それにしては出来上がった作品は見事に支離滅裂なものである。先輩の原稿用紙の中は今日も上原亜衣でいっぱいに違いない。

話は少し戻りつつ、敵対と関係性の芸術について私に語り出したのは他ならぬバンドでベースをやる彼のほうだ。メンバーの75%が文学サークルの付き合いであって、私としては残りの25%への同情を抑えきれない。大学生同士が結成したバンドと聞けば、ぬるま湯めいた和合の場を想像せずにはおれないし、提唱者のギタボが実際そんな感じらしいので、瞬く間に解散することだろう。異なる文化のなかで育ってきた人たちが一つになって、音楽を演奏する。バンドは関係性の芸術なのではないかな。ならば勿論、必要なのは敵対だ。敵対を好まない人間にロックが続く筈もない。どうせなら私と組んでくれれば……と思うのは、些か理性を欠いているだろうか?