細胞的神経的文脈

ゴミブログ なう

ネイキッド

どこかの母親が幼い我が子の頭を殴った末にその子の脳は腫れ上がったらしい。脳が腫れるという事実に機械的に驚いた。名前も知らないその幼児に哀れみの感情を抱くことを私の肉体は今も拒否しつづけている。

理系と文系の境界線について論じる言葉を何度か聞いてきたけれど、私が工学部で習っている内容が倫理的に文系科目とどんどん遠慮もなくリンクし始めていて、最早境界線なんて個人の中で勝手に解消されていくものなのだなあ、と感じた。この『境界線なんて個人の中で勝手に解消されていく』っていうのがどこまで一般論と解離しているのか、最先端の研究成果とどれだけ解離しているのか、私には知る由がないし、ましてこの言質がなんかの小論文みたいな形で世に出ることなんて全くあり得ないので、私はやっぱりインターネットのブログでつらつらと文句を垂れる事しかしていない。

『その文化の発生の起源、現在にいたる変化の過程、及び今それが存在している意味を考えなさい』

と、いうのは新しいサークルの先輩の説教の一部だ。とても理知的で感心した。一方の私の脳は心にぶら下がったアクセサリーキーホルダーみたいなもので、殴られて三倍に腫れ上がったって何の問題も無いに違いない。思えば春休みボケのまま新学期に突入しており勉強は一ミリも進めぬままに中間試験まで一週間を切った。手の施しようが無い阿呆であった。(モリミン風)

数日後には勉強を始めるだろう。その流れに乗ったまま理知的に小説を書いてみたい。彼とも一旦お別れした。次号に期待だ。