細胞的神経的文脈

ゴミブログ なう

失望されたこと、させたこと、怒られたこと、感情を引きずり出したいこと

人間、理論を司る精神と感情を司る魂、あるいは左脳と右脳、ともかくその二種類の側面を持って生きている。作品を批評するとき、但しプロ作家の作品ではなく素人の作品を読んで批評しようとしているとき、私の魂は作品に対して基本的に何も求めない。きっと面白いだろうって信じる心は残っていなくて、ただ失望したくないから、初めから何も求めないようにしている。あくまで魂は魂として、精神はちゃんと知能的に作品を分析するかと言うとどうやらそういうことでもなくて、一度どっかでこいつクソ作品だわ、と思ったらもう一生好評は絶対出て来ない。寛容性を失って気に入らない部分を全部殺したくなる。

そういう瞬間の読者に私は噛みつきたい。どんなにスマートな人間でも理性を失って感情の獣になる瞬間がある。ある種の文学者は自分が常に冷静で、感情あるいは無意識の獣を飼い慣らしてる気になってて、そういう奴が鼻につくから、私はその頭にショックを与えてやりたいなぁ、と思ってたりして、そういう私自身は理性が常人の十分の一も働いてないし、そういう個性なんですって免罪符を振り回して、ドヤってる所、そいつらとなんにも変わんないかもしれない。