細胞的神経的文脈

ゴミブログ なう

わるくちを言い過ぎた

個人攻撃のための言葉を広大なインターネットの海に垂れ流してあまつさえ他人に読ませようとはいい度胸だ……と、数日前の自分に言ってあげてる。

恐ろしいのはその個人攻撃の対象がこのブログを発見しようとしているっていう点で、これを機にもう悪口は言わないことにするしかなくなってしまった。私がその人のことをどう思っているかをわざわざここに書いたのは、他人に読ませるというより自分で読み返すためのもので、それなら別に公開しなくてもいいのだけれど、一応窓は開いておく。というスタンスが引きこもりと嘲笑われないようにするための保険でもある。でも悪口は悪口で、その人が読めば傷つくのはほぼ間違いないし、人を傷つけてのうのうとしていられる社会的立場にもないから、やっぱり記事を消すしか、手段がないのね。残念なことに。

私はある種の人間が嫌いだし、そういう人と付き合う必要がある。その事実を黙って受け止められるほど、私自身が成熟していない。問題はそこにあるのかもしれない。その成熟に至るまでの苦痛を叫ぶことは、今の私にしか出来ないことだが、その成熟を終えた人たちに、この言葉は届くのだろうか? 苦痛について語るとき、私はこの疑問をずっと抱え込んだままでいる。