細胞的神経的文脈

ゴミブログ なう

眠れない昼間

毎日工学部でいくつもの授業を受けているし、家にいる時間も一般的な生活で手一杯だ。文学を挟む余地がない。嘘です。余地はある。本当はやりたくない。

文学サークルに入って、真面目な本を読まないといけないようになってから、不真面目な本すら読まなくなってきた。同じ大学に通う友人の書く小説を読んでいると、そのレベル如何に関わらず、自分があえて頑張る必要なんて無いんじゃないかな、と思う。ワタシちゃんのために小説を書いてきたから、ワタシちゃんがほしくないなら書かなくて良い。シンプルな論理ではないだろうか。

私はこれから小説を書くのだろうか?正直、自分には才能が無いと思ってる。だから職業小説家にはなるはずがない。だけれど、趣味で小説を書くなんていってる世の中の人たちは、やっぱり自己満足以外の理由で書いているのだろうか?もし自己満足でしかないなら、あまりにも「満足しなさすぎ」じゃないか?飽くなき欲望の炎にコップの水で消火活動みたいな生産性の無い行為にわざわざ他人を付き合わせる神経は私には無い。小説を書くための動機があれば、また書き始めるだろうけれど、「動機がほしい」とは到底言いたくない。だってあまりにもみっともないでしょう、動機がほしいなんて。我慢しなきゃいけないね。口を閉ざして……

閉ざしたらブログ書けないけれども。私の明日はどっちだ。乞う御期待。

わるくちを言い過ぎた

個人攻撃のための言葉を広大なインターネットの海に垂れ流してあまつさえ他人に読ませようとはいい度胸だ……と、数日前の自分に言ってあげてる。

恐ろしいのはその個人攻撃の対象がこのブログを発見しようとしているっていう点で、これを機にもう悪口は言わないことにするしかなくなってしまった。私がその人のことをどう思っているかをわざわざここに書いたのは、他人に読ませるというより自分で読み返すためのもので、それなら別に公開しなくてもいいのだけれど、一応窓は開いておく。というスタンスが引きこもりと嘲笑われないようにするための保険でもある。でも悪口は悪口で、その人が読めば傷つくのはほぼ間違いないし、人を傷つけてのうのうとしていられる社会的立場にもないから、やっぱり記事を消すしか、手段がないのね。残念なことに。

私はある種の人間が嫌いだし、そういう人と付き合う必要がある。その事実を黙って受け止められるほど、私自身が成熟していない。問題はそこにあるのかもしれない。その成熟に至るまでの苦痛を叫ぶことは、今の私にしか出来ないことだが、その成熟を終えた人たちに、この言葉は届くのだろうか? 苦痛について語るとき、私はこの疑問をずっと抱え込んだままでいる。

異常なし

特に用事はありません。何かを確かに考え、思ったはずなのに、ここに何も書くことが思い付かないということは、本当は何も考えていないし、思っていなかったのかもしれません。

というのは些か詩的だが確実に詭弁。私は確かに何かを考えて思ったのだ。その中身を今は思い出せない、というだけのことだ。

無理に詩的にしようとする性格を好まない。作られた詩はフィクションだし、フィクションは好きじゃない。ただ、小説を読みすぎて、小説のなかに当たり前のように紛れ込んだフィクションに慣れてしまって、小説を書こうとするとするとフィクションを書きそうになる。だから、ここには事実だけを書くことにした。

事実だけを書いても、これだけの字数が稼げることに、満足している。

三日坊主

飲み会では結局ノンアルに徹したけど、そもそも飲み会の前日に友達と飲んでいた訳で、度重なる酒の臭気に肝臓は崩壊の一途で、脳の縮小も甚だしいから、水を吸わせてもう一度膨らますのに丸一日を要した次第です。

そんな理由でブログの連続更新が途切れたけれど、途切れた今思うと毎日更新することにはなんの意味もないようだ。三日めなんて何を書いたか覚えていないし、覚えてないからには読む価値ゼロに違いない。しかし思えば今日のこの記事も読む価値はないし、初日から常に読む価値はない。結論としては、ブログを続けることの方がいけなかったのかもしれない。

そもそも読む価値ってなんだ?……っていう話についてだけれど、実はその辺りについてサークル会誌でエッセイに書いた。ここで広告して良いのか、許可もらったら毎日大宣伝していきたいところ。ブログっていうのは世の作者たちにとっては安寧の地ですね。金取らない分、好きなこと言える。有名人でもないし。

サークル会誌の編集委員は自身も作品を載せてるのだけれど、私を含めた他の作品は段落下げや改行がバグりまくってるのに本人の作品だけ至ってキレイな点を見れば、自分の作品だけ丁寧に見直してるんだろうなって容易に想像できる。私の作品なんてゴミが沢山ついている。レストランで埃の乗ったパスタが運ばれたら誰だって怒る。でもシェフは悪くないんだ。悪いのは給仕のアホです。ごめんなさい。

三日目の記事

明日は東大の学園祭でありまして、私の作品はそちらの文学研究会のブースで販売されるもようであります。読むといい。誰かに読んでいただけた時点で、私がスッキリします。

今回の作品に関して何かを言うべきか分からない。(まだ販売前って意味では確実に何も言うべきではないのだけれどそれはそれ。)ブンケンデビューしたてホヤホヤの身だけれど、一応個人的に書いてきたものたちを一応公開したりもしてきたので、それらの作品と、今回書いたものをひっくるめて、ひとつの作品群として扱ってみる。『言いたいことは、まだ言ってない』というのが率直なところであった。しゃべりたがりの割にはどうでもいい秘密を隠し通すところが悪い癖で、直すべき癖で、今から駒場祭までに半年で治療する予定の癖。フィクションを語るのが悪いことではないんだけど、ここでは本当のことだけ言いたいのです。以後よしなに、よろしゅうに。

二日目の記事

とくに言いたいことがなくてもとにかく言葉をそれらしく繋げておくことが今の私には必要な技術なのだった。

私が小説を載せたサークルの会誌は作りが非常に雑で、分かってたくせにPCの素人に仕事を任せた私にも責任の一端がある、みたいな感じがある。本命の作品は次回に載せるつもりでいて、その頃までには総合編集の工程をWord抜きで済ませられるようなサークルに生まれ変わらせたい。さりげなく素人を貶したけれど私がやったところでやっぱり間違いは発生したりして、ドヤ顔で指を指されること請け合い。プロ意識は明るく正しく運用しなければならない。自省の日々だ。遊びで生きてる訳じゃない。

工学部のひとなので、責任もって一つの価値観に従って生きてる。社会人っぽい。そういうのは誉められるべき態度だ。文学的に問を発生しないこの態度の価値は路傍のクソ以下かもしれないが、常に問うてれば他になにもしなくていいなんて言いながらプラトンおじさんの物真似してるヒキニートに与える飯は誰が賄うのか。もう問いだか答えだかいうのが大事にされる世の中じゃない。元素が発見されつつあった時代に四元素説にしがみついてた錬金術マンたちの涙ぐましい努力を思わせる。

おはつの記事

生きている以上諸々の事情が重なってブログを始めなければならなくなったということはよくあることであります。この記事ははてなブログの仕様をとりあえず試すためのテストに過ぎません。

生きている以上人は自らの脳が作り出すヴィジョンを言葉に変換した上それを他人の脳にぶち込もうなどという下賎な欲望にとりつかれたまま滅多なことではそこから抜け出すことが出来ません。いえ少なくとも私はそう。

そして自らのお粗末なヴィジョンをどうにかして他人様の頭に捩じ込みたいがために古今東西あらゆる表現技法が生み出されてきた。言葉とヴィジョンの繋がりがみっちり強いということは一方その繋がり方が他人には全く理解出来ないということでもある。汎用的な表現を用いるか、個人的に強い表現を用いるか、二項対立のはざまで板ばさみになって悩んでいるけれど正直そんなことに貴重な人生時間割いてて悲しくないのか疑問は残る。

ちなみに将来脳科学が発達してヴィジョンをそのまま伝えることが出来るようになったら小説どころかあらゆる芸術はこの世界からオサラバであろう。未来のことではあるがそれを思うだけであまりにも悲しいから、裏庭に『げいじゅつのおはか』って書いたアイス棒突き立てて、夏休みは毎日念仏唱えて差し上げたいところ。皆さんもどうぞ。