細胞的神経的文脈

ゴミブログ なう

短い小説を書いた

 まあ、書いたんですけど、どうにも虫の居所が悪い。

 そもそも新人賞に出そうと思ってた、もう中学生の頃から温めていたネタがありまして(温めすぎて腐敗しているとかいないとかいう話は次回に回すとして)、その一部として書いたものが、予想外に単品でまとまってしまっている。定食の漬物作ったと思ったら思ってたより噛みごたえ味わいに富みメインディッシュを食い潰しそうであるみたいな。これ超えるメインディッシュ私作れる気がしませんけどみたいなね。

 まだこのブログ消えてないんですかね? インターネットには様々な三日坊主の死骸が転がっている訳ですが、この曇りがちな五月の朝、絶好の小説日和ですが、めでたく私も復活したわけです。言葉だけを頼りに世界とつながっていると、まるで私の存在そのものがフィクションであるような、安定感のない気分がどうにも止まないが、そんなもの、ここに書いたって、直る訳がないんですね。ブログなんていくら書いても、微塵も存在証明になりゃしない。書きたいことがツイッターより長いからここに書くだけだ。真っ暗な谷底に石ころ落とすみたいに。いくつもの石ころを。夢現なせいか、下手な比喩しか浮かばないや。ごめんなさい。ごきげんよう。良い朝を。

シルバーレアの私たちへ

 いらなくなったものを中古品として売るときの相場は買った値段の半額、というのがグローバルスタンダードだと信じて止まないけれど、カードゲームの世界ではそういうことでもないらしい。いわく50円で作れるカードは10円でしか売れないし、3500円かけて一枚作れるカードは1000円でしか売れない。ちなみに人対人の取引は不可能であり、支配者たるゲーム会社にレッドなんとかいう名前の通貨をバンバン明け渡す方式になっている。

 オカルト好きの母が嫉妬するのは霊能力者だそうで、実は彼女は自分の「無能力」を自覚しているのかもしれない。これは私にとっては意外も意外なことで、日ごろのそれっぽい自慢話はじゃあ何だったんだって話になる。きっと母はその矛盾に気付かないまま、私に対して腑抜けたコンプレックスを曝け出したんだろう。彼女は今や、自身にとっても娘にとっても、無能力者のブロンズレアだ。ただし数日立てば向こうは忘れて、また自分の価値を妄想の中で高めてしまう。傷ついたのはこっちだけだ。

 一方東大生の彼だが、ただでさえ東大生なのに児童虐待の被害者であり、さらに特殊なステータスを3つ4つ持ったマジヤバ人種だ。その淫蕩と怠惰で著しく損なった人格から飛び出す悪魔的な小説は正直男ウケの塊でしかないが、かといって彼自身も上記の通りクソ人間だが、ちょっとおかしな環境に生まれたシルバーレアな私にとって、本物のレアの中のレア、レジェンドクラスの彼がただただ羨ましくて、その人生の全てを私がこの世に残してあげたいような気がしていたりして、しかしそんな暇さえ無いほど彼との時間は光速で過ぎていくのだ。

 没個性が謳われる(謳われてはいないが)この世の中で腹の中の小石みたいに消化されず流されもしない人間がいるのは素晴らしいことかもしれないが、当の本人はいつも至って寂しそうだ。理解者が一人くらいいないと生きていけなさそうに見える。暴論ぶちあげた挙句最後に私自身が社会不適合だねぇって笑ってピリオドを打ったクソ日記しか書けない私たちはマジョリティたるブロンズレアとは異なるにしても結局シルバーレアに過ぎない。ひとつ上のレア度を獲得するにはまず自らのレア度を冷静に把握することが重要です、ってレア度の教科書ならそう書いてあるだろう。けどそのカードゲームでは、シルバーでもレジェンドと組み合わせればとても強くなるカードがあるそうだ。私に残された道はもうそっちしかないような気がする。複雑性を捨て、コストの割には使いやすい人間になることで、小山の大将になろう。

僕の小説アカデミアver.2

高校生の時、

初めて買ってもらった電子辞書に入っていた新若者言葉辞典みたいな名前の読み物で「ナウい」を引いたら、『一昔前のもの』と出てきた。新大陸、新世界、ニュータウン。本家ニューヨークに漂う「私はあくまでも二代目に過ぎませんから」っていう空気を日本の翻訳者たちはついに汲み取ることができなかったらしく、無様に寂れる未来の看板が今日も、建てられていた。

私のほんのささやかな中間試験が終わって、東大生の彼が私と再び言葉を交わすようになるなり、悪意じゃなくて自尊心から産み出された、私の書く小説への罵詈雑言を聞くにつけて、猛烈な試験疲れのせいか爽やかな風が吹いていた私の感情は妙に落ち着き払っていて、小学校の6時間目、ナントカ活動の時間で無理やり議論させられた環境問題対策の方法に相対するように、小説というかたちで私と彼の間に流れる二人分の自我を見つめていた。

まさに環境問題は私の心をうまくたとえているようだ。環境問題に携わる人間の「あるべき心情」を考察するところ、一番の根底は死を遠ざけたいっていう根元的欲求? であって、そこから生まれた明日には地震で死ぬかもしれないっていうぼんやりとした理性のない不安であるべきだ。人間が環境問題を解決したいのは、自己保存のエゴによるものだと自覚した上で、しっかりそのエゴに正直な形式で環境を守らなきゃいけないね……っていう、高校で読んだ論は21世紀の宝だと思う。しかし現実的なところ、環境問題に長く関われば関わるほどそういうのを見失って、しろくまとかこあらなどのかわゆいいきものを絶滅させないために生きている気になっちゃってる人がいるのが現実だと思う。私の小説に対する働きかけも最初は結構深刻な理由だったのだ。あの頃私は確かに、生きるために筆を握らなければいけなかった。それがいつの間にか、自分のやりたい事であるかのように、それが趣味であるかのように錯覚していたのである。これはよろしくないのである。

さて、前回か前々回かの記事に載せた我らが先輩のありがたい言葉を思い出すところ、そういう現実はもうすでに「ある」のだから、単に責めるんじゃなくて意味や原因を探ったり、発生と現在に至る経緯を探ったり、そういうのがアカデミズムだと。私も大いなるアカデミアの園に飛び込むがため、この態度を実践してみたい。といってもここはあくまでブログ。たかだか大学生の授業中の内職に過ぎないので、本気(マジ)になって図書館で資料探ししたりするレベルには至らない。

まずは環境問題について考えよう。(もとはと言えばただの喩えとして登場したこのネタだけど、まあ考えて損はないだろうし、それが私と小説の関係の解析にも繋がるに違いない。多分)何故我々は勘違いしてしまったのか。思うに諸悪の根元は国連である。(ここで世界を裏で牛耳る闇の組織にマークされる)世界の知を集めた環境保護機関が、そこいらの愚鈍な民衆にも環境保護の大切さを分かりやすく伝えんがために、「ほ~ら環境守らないとシロクマさん死んじゃうぞ~」と煽ったのがそもそもの原因なのではないか。ちょっと説得力のありそうな話である。

では次のステップへ。これが原因であるとしたら、その意味は何か。「人はかわゆい生き物に弱い」確かに事実だがいまいちパンチがない。もう少し重要かつ斬新な、人間の性質を見つけたいものだ。ここは勘違いそのものをもう少し詳しく考えてみる。間違っているのは、「シロクマが死ぬと良くない」事ではない。これは事実なのだ。ただし、正確には「シロクマが死ぬと巡りめぐって人類の滅亡確率が上がるので良くない」。そして勘違った解釈は、「シロクマが死ぬのはかわいそうでよくない(あとなんかよく分からないけど学問上もよくない)」といったところか。カッコの外と中を見比べる限り、ここには利他主義を装った自己主張があるようだ。というのは、利他主義といえば優しさの極致、日本人は譲り合いの精神が高い云々の痛い自称もあいまって、私たちはいつだってあわよくば「あの人は利他主義者だねぇ」と言われたいのである。それゆえに、自分が損して他人が得するっぽい話には目がない。もう少し掘っておくと、今まさに私が捲し立てているように人間は基本利己主義で生きてるので、利他主義者の称号は極めてレア、むしろSレアだ。つまり、私たちはレアな存在になりたい、という論もこの話には関わってくるのだ。

要するに勘違い環境保護主義者は、グローバル化した現代から生まれた没個性への恐怖の産物であり、肥大化した承認欲求の捌け口に成り下がっているのだ。
そして私も同様、荒んだ自分の環境をフィクションに託して心の安寧を保つために書いてきた筈の小説だが、案外他人が読んで喜んでくれるために、他人の顔色を伺うようになってしまったというわけだ。ついでに純文学小説家というSレア称号も手に入るわけだし。ひょっとして環境問題には人類普遍の問題が隠れているのでは?貴方はどうですか??(ドヤ顔)

……というのが安易なオチであり、

ここから話を深めてゆく所存だ。彼にこのブログを発見され丁々発止の口論を乗り越えた今の私にもはや敵など皆無である。そう、まさに世界を敵に回すことさえも恐れない。これは小論文系のブログをこねこね育てていくには必須の態度である。多分。
今回言うところの世界とは私の小説観と勘違い環境保護者の共通点を抽出した問題意識の概念である。何を見て何を見ないかという話だ。
何を見ているか?
現実問題から人々の自己主張欲求を見つけ出そうとする論調なのだから、臨床心理学を通した現実を見ているのだ。
何を見ていないのか?
臨床心理学を通さない現実だ。人間が「どのような欲求を持っているか」、そこ以外の側面だ。
では世界を敵に回すとは何だろうか?
この概念を否定することか?「そんな見方でしかものを計れねーとは、哀れなもんだぜ」ということか?
多分そうではない。この見方そのものに矛盾があることを指摘せねばならないのだ。これぞ脱・構築デコン。例のちょうカッコイイやつ(曖昧な知識)である。

見方そのものに潜む矛盾とは何だろうか。
私は環境保護者が利他主義を名乗るのは承認欲求によるものであることを指摘した。これだけの情報に矛盾が潜んでいるのだろうか?正直私にもよく分からないのだ。しばらく考えたい。

(考え中)

整いました

まずもって怪しいのが結論である。現代の肥大化した承認欲求?これには何の根拠もない。現代になって承認欲求が肥大化したなんて本当なのか?人間の数が増えて、SNSで人の心模様が見やすくなったから、そう思えてきているだけではないのか?
現代になって承認欲求が大きくなっているわけでは別にない!としたらば、利他主義を名乗る承認欲求は昔から一定割合で存在した!ということになる。つまり利他主義はもとより承認欲求と共にあったのではないのか。情けは人の為ならず(正しい方の意味)と言うではないか。利他主義は実は利己主義だった。なので勘違い環境保護者も、認められたくて小説を書くアマチャンも、遥か昔から存在したのだ。ここに現代性を見出だすのは誤りである。

決まった。誤りを指摘したところで、「本当に現代的なのは何か?」まで突っ込んでみたい。人間、他人の否定で終わってはいけないのである。
今まで語った内容で明らかに現代性をもつものと言えば心理学そのものだ。そしてこの場合、心理学はどのように現実に浸食しているのか。そう、国連である。やはり諸悪の根源は奴らなのである。心理学を道具に用いるということは、人間の普遍的性質を利用していとも簡単に人を操る事なのだ。
「それはいけない」?否、私はもうそのレベルの論調では満足しないぞ。我々が日々に操られているのはもはやどうしようもない現実だ。そして復讐とばかりに我々も人を操る。これが社会のサイクルとして現に存在しているのだ。その流れにいくら逆らおうとしても、その意志を逆に利用されるのがオチである。

格言を言います。

「人は感情から逃げられない。」

--サユリ--

人間の無意識は巨大な象であり、その背に乗る我々は彼を完璧に操ることは決して出来ないという。自分の象を餌付けして他人に荒稼ぎされるのがいかに腹の立つ事であろうとも、象はいずれは何らかの餌を食べなければ生きていけないのだ。生きる上で外界との関わりが存在する限り、全ての餌を自分で賄う事は不可能だ。自分の象の終着点を知ることは叶わず、買ってきたバナナでも目先にぶら下げて方向を変えさせるのが良いところだ。現代ならではのもう一つの特徴は情報化社会であり、これは即ちどのバナナを買うかの選択肢がたっぷり増えたことを表している。どの方向にもいける。ぐるっと回って一周することも出来る。他の象と違う景色を見たくて、群れからわざと離れて迷子になった象は、いずれ虎の群れに喰われて死ぬであろうが、しかし確かに彼は別の景色を見たのであり、その足跡は最早永遠に消えない。
感情から逃れられないのならば、私は美しい景色に至る感情を知りたいと思う。そのために、常識を逸脱した感情に身を任せることは、破滅的ながらも必要不可欠なことであるとも思う。

ネイキッド

どこかの母親が幼い我が子の頭を殴った末にその子の脳は腫れ上がったらしい。脳が腫れるという事実に機械的に驚いた。名前も知らないその幼児に哀れみの感情を抱くことを私の肉体は今も拒否しつづけている。

理系と文系の境界線について論じる言葉を何度か聞いてきたけれど、私が工学部で習っている内容が倫理的に文系科目とどんどん遠慮もなくリンクし始めていて、最早境界線なんて個人の中で勝手に解消されていくものなのだなあ、と感じた。この『境界線なんて個人の中で勝手に解消されていく』っていうのがどこまで一般論と解離しているのか、最先端の研究成果とどれだけ解離しているのか、私には知る由がないし、ましてこの言質がなんかの小論文みたいな形で世に出ることなんて全くあり得ないので、私はやっぱりインターネットのブログでつらつらと文句を垂れる事しかしていない。

『その文化の発生の起源、現在にいたる変化の過程、及び今それが存在している意味を考えなさい』

と、いうのは新しいサークルの先輩の説教の一部だ。とても理知的で感心した。一方の私の脳は心にぶら下がったアクセサリーキーホルダーみたいなもので、殴られて三倍に腫れ上がったって何の問題も無いに違いない。思えば春休みボケのまま新学期に突入しており勉強は一ミリも進めぬままに中間試験まで一週間を切った。手の施しようが無い阿呆であった。(モリミン風)

数日後には勉強を始めるだろう。その流れに乗ったまま理知的に小説を書いてみたい。彼とも一旦お別れした。次号に期待だ。

失望されたこと、させたこと、怒られたこと、感情を引きずり出したいこと

人間、理論を司る精神と感情を司る魂、あるいは左脳と右脳、ともかくその二種類の側面を持って生きている。作品を批評するとき、但しプロ作家の作品ではなく素人の作品を読んで批評しようとしているとき、私の魂は作品に対して基本的に何も求めない。きっと面白いだろうって信じる心は残っていなくて、ただ失望したくないから、初めから何も求めないようにしている。あくまで魂は魂として、精神はちゃんと知能的に作品を分析するかと言うとどうやらそういうことでもなくて、一度どっかでこいつクソ作品だわ、と思ったらもう一生好評は絶対出て来ない。寛容性を失って気に入らない部分を全部殺したくなる。

そういう瞬間の読者に私は噛みつきたい。どんなにスマートな人間でも理性を失って感情の獣になる瞬間がある。ある種の文学者は自分が常に冷静で、感情あるいは無意識の獣を飼い慣らしてる気になってて、そういう奴が鼻につくから、私はその頭にショックを与えてやりたいなぁ、と思ってたりして、そういう私自身は理性が常人の十分の一も働いてないし、そういう個性なんですって免罪符を振り回して、ドヤってる所、そいつらとなんにも変わんないかもしれない。

ショボン

私の文壇デビュー、鬼先輩の酷評を受けて無事死亡。ふて寝る。

彼がバンドをはじめるそうです

といっても彼はベースだそうですが。まだ買ってすらいない。笑うしかないね。学園祭で恥を曝す予定なのだろうか。見に行かないでおいてやりたい。

敵対の中で人は成長するのだろうか? 少なくとも子供はそうだ。敵対に勝利すればその行為は促進されるし、敗北したならその行為は衰退する。なら大人はどうだろうか。……芸術と批評の話だ。例えば毎回こっぴどい批評を受けているのに作風に微塵の変化もない先輩がいる。彼は何故あれだけの酷評を受けていても堂々としていられるのだろうか? 考えられる一つの理由は、彼の作風を評価している人間も少ないながら存在していることだ。それも文壇の割と上層部である。我々サークルの民の声など耳に入らないというわけだろうか。あるいはもう一つの可能性として、彼の芸術は民主主義ではなく一つの大いなる理論体系のもとで出来上がっており、批評そのものが必要ないということだろうか。あるいは、この二つは共通部分をもっているようにも思える。文壇の頂に輝く真実を彼の目は見据えているというのか。それにしては出来上がった作品は見事に支離滅裂なものである。先輩の原稿用紙の中は今日も上原亜衣でいっぱいに違いない。

話は少し戻りつつ、敵対と関係性の芸術について私に語り出したのは他ならぬバンドでベースをやる彼のほうだ。メンバーの75%が文学サークルの付き合いであって、私としては残りの25%への同情を抑えきれない。大学生同士が結成したバンドと聞けば、ぬるま湯めいた和合の場を想像せずにはおれないし、提唱者のギタボが実際そんな感じらしいので、瞬く間に解散することだろう。異なる文化のなかで育ってきた人たちが一つになって、音楽を演奏する。バンドは関係性の芸術なのではないかな。ならば勿論、必要なのは敵対だ。敵対を好まない人間にロックが続く筈もない。どうせなら私と組んでくれれば……と思うのは、些か理性を欠いているだろうか?